高野山真言宗 清瀧山 金剛宝戒寺

令和2年9月1日発行 第78号

檀信徒の皆さま残暑お見舞い申し上げます。
月参りに伺うと、お寺は涼しくて良いでしょ?
と聞かれることがありますが、
やはり夏は暑いです。
ただ緑が周りに多く秋の気配を早く感じる事は
出来ているかもしれません。
特に早朝の境内は気持ちが洗われる場所です。

お盆供養とお施餓鬼について

お寺の年中行事で最も忙しいのがお盆です。
今年は新型コロナウイルスの影響もあり
お参りが出来るかを心配していたのですが、
例年通り三名のお坊さんにお手伝いを頂き
無事に終わることが出来ました。

 

盂蘭盆会のルーツはお施餓鬼供養にあることを
以前にも書いたことがあります。

 

お釈迦様の十大弟子である目連尊者が
亡くなった母親を千里眼で探すと
餓鬼道に堕ち、腹をすかせ苦しんでおり、
その母親を救済するために行った供養が
施餓鬼供養であると言われています。

目連尊者の母

この様なお話をすると
「目連尊者の様な立派なお坊さんを生んだ
お母さんでさえ餓鬼の世界に堕ちるのですか?」
といった質問を受けることがあります。

 

目連尊者の母親は優秀な我が子への愛情が深すぎて、
他者への施しが出来なかった為に餓鬼道に堕ちたと言われています。
決して現代のモンスターペアレントの様ではなかったと思うのですが、
溺愛という言葉が有るように心身の欲求や執着ばかりではなく、
見解や理想までもが渇愛に含まれることを教えてくれています。

修行時代の思い出

私が高野山で修行させて頂いていた時は
毎晩お施餓鬼供養をしていました。

 

当時はその様な深い意味があることも
知りませんでしたが
毎日が新しい経験と驚きでした。

 

一般の大学を出て直ぐに専修学院という
修行場に入りました。
肉魚やお酒などはもちろん禁止。
外出は週に一回一時間、
新聞は一日古いものを読むことが
出来ていましたが、
お盆明けから年末にかけての
修行期間中は
外出にはもちろん新聞や電話、
手紙も禁止されていました。

 

それまでの学校生活では
無駄なく早く物事を解決し、
分からない事があれば質問する事が
良いことと教えられていた様な気がしていました。

 

ところが専修学院で最初に言われたことは
「門主様には決して質問してはいけないし、
間違いなどが有っても指摘してはいけない」
との事でした。

 

また何かにつけて待ち時間が多く
何も出来ない、何もしない。
一見、無駄と思える時間が
非常に多かった事を覚えています。

 

そんな時、山内のお寺で
住み込みの生活をしてきた
同僚に無駄の話しすると
「仕方ないやん」
との返事があっけらかんと
返ってきたのに驚いたことを
鮮明に記憶しています。

効率と生産性

それまでは素早く無駄なく
答えを導き出すことが
有能だと思い込んでいました。

 

しかし修行場では訳が分からなくても、
解決しなくても持ちこたえていく事の
大切さを知りました。

 

その様な考え方は現代的ではなく、
生産的でないと言われるかもしれませんが、
今の学校(社会)では解決することの大切さを
教えていても、解決できない事と向き合う
すべ(術)の大切さを説いていないと思うのです。

解決しない事との向き合い方

お釈迦さまの教えにある「一切皆苦」
(世の中は思うようにならない)は
決して消極的な考え方でなは無く、
このコロナ禍において
なかなか先の見通せない時だからこそ、
より生きてくる教えではないでしょうか?

 

短い人生を振り返ってみても時間が
解決してくれている事は少なくありません。

 

考えてみるとウイルスに人類が
負けたと言う歴史は有りません。
今のように科学が進んでいなかった時代ですら
人間は生き残ってきました。

 

アフターコロナではこれまでと全く違う
生活様式になると言われていますが、
私はその様には思っていません。

 

何故なら会食も気楽に出来ない社会など
単純に楽しくないからです。
楽しみや欲望にこそ進歩の源があり、
とてもか弱いヒトが人間として営み、
発展してきました。

 

しかしそれらを決めていくのも
私たちであることを忘れてはいけないと思います。

お写経のご案内

大師号下賜千百年記念法要を
今秋高野山にて行うにあたり
般若心経のお写経を十部程度ご奉納いたします。
希望者の方はお寺までお問い合わせ下さい。
合掌
令和2年9月1日発行 第78号

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